スターソルジャー
ハドソン
1986.6.13発売
©1986 HUDSON SOFT
「キャラバン」という言葉から思い出す情景
キャラバンが地元のデパートで開催されると告知があり参加したかったが、親は「ファミコンより勉強」と参加を許してくれなかった。ファミコンも1日30分程度しか許してもらえず、「大人になったら思いっきりファミコンを遊ぶんだ」と本気で考えていた。周りに同世代の子どもも多く、最高得点について話して競い合っていたが、プレー時間もあまり無かったこともあり、トップになれることはなかったような気がする。
大人になってふと思う、「親は子どもの将来を心配してくれていたからこそ、ファミコンを我慢させたんだ!」と。大人になった現在、ファミコンで遊ぶことは無い。だが、キャラバン……という言葉を聞くと、昔の友だち、にぎやかな街並みだった頃を懐かしく思い出す。多感な子どもの頃に、一生の思い出になるようなこのソフトに出会えたことに感謝したい。
寄稿:シーザー 男 1972年生 福島育ち 会社員
今でもやってます
小学生の私は、14連射でキャラバンに出場しようと前日猛練習した翌朝に熱で寝込み、大会に出られない記憶がありました。そしてキャラバンが終わっても、小さな町のおもちゃ屋の大会に出て、最高記録を叩き出した思い出があります。
実は今でもたま〜に、スタソルやってます。ハドソンスティックが欲しいが、なかなか入手できませんね〜。やっぱ時代かな。でも結婚して、子供たちがスタソルをやってる姿を見て、当時の無邪気な気持ちが蘇ります。
寄稿:hawk 男 1973年生 愛知育ち 会社員
最高のおもてなしは『スターソルジャー』で
小学生の頃、僕の家ではファミコンは1週間に1時間しか許されなかった。3人兄弟で、1人につき1時間。この至福の時間を我々兄弟は、「ファミ時間」と呼んで心待ちにしていた。
しかし厳格な両親は、たとえ友だちが遊びに来ても、ファミ時間の延長は認めてくれなかった。友だちの分だけ1時間増えるということは許されなかったのだ。
僕は悩んだ。友だちを招待してゲームをしても、あれよあれよというまにファミ時間を消尽してしまう。十分楽しんでもらうことなどできやしない。
そこで兄弟は親にかけあい、1週間ゲームをしなければ、ファミ時間を次の週へ繰越すことを認めるという権利を認めさせた。これにより、1週間我慢すれば、2時間の連続プレーが可能になったのである。
それからというもの、友だちを招く際には1週間の禁欲生活を経て、2時間のファミ時間を用意することが、僕流のおもてなしとなった。そして、その際にプレーするゲームは、必ず『スターソルジャー』だった。我慢に我慢を重ねて、友だちと「スタソル」で遊ぶ2時間の濃密さ。あのような時間は、自由を手に入れた大人には二度と訪れないのだと思う。
寄稿:とっすぃ 男 1977年生 岡山育ち マスコミ関連
自作の連射回路を開発
どちらかというと電子回路自作趣味な私の場合、キャラバンとか大会には興味が無く、自作の連射回路をファミコンに組み込んで、いかに高速連射を繰り出して敵を撃破するか、に燃えていた気がします(笑)。
それにしてもスタソルはハマりました。学校から帰ってくるとずっと遊んでましたね。最初から最強装備のコマンドを使ったりもしましたが、やり込んで行くうちにそれじゃつまらなくなり、普通にプレーしてクリアするのはもちろん、すべてのワープを使って(そうするとレーザーが取れない)最短でクリアしたり、最低得点クリアをやってみたりと、骨までしゃぶって楽しみました。
裏ソルは、残念ながら最強コマンドを使わないでクリアしたことは無いです。1個でもパワーを取っちゃうと誘導弾……ありゃキツイ。ちなみに、手打ちでクリアしたことも無いです……ヘタレだな、俺(苦笑)。
寄稿:kema 男 1974年生 東京育ち ハード/ソフト/ネットワーク技術関連 ホームページ
初めからジョイカード
シューティングゲームはあまり好きではなかったのですが、『テラクレスタ』やこのゲームだけはかなりハマりました。自分は16連射に挑戦!なんてことはなく、初めからジョイカードMk-IIを使用していました。しかも「セレクトボタン1、2、3……10、せ〜の〜で」、とこれだけで分かりますかねぇ。これは、初めから5方向に弾が打てて、しかもレーザーが使えて、さらにバリアもある、という鬼のような裏技のコマンド入力をするための掛け声です(笑)。
Iコン、IIコンどちらのボタンも使用して、最後にタイミングよく一緒に押すという裏技だったために、2人でやらないと結構難しかったのだが、当時ひとりでできるようかなり練習していました。実は今でもできちゃうんですよねぇ、しっかり覚えているもんです本当に。
こんな裏技を使った上に、ジョイカードよりも連射が早くなる(ような気がする?)3面の高橋名人の黄金の指という隠れキャラまで出し、これでもかと言わんばかりに最強にしても、これまで16面すべてクリアしたことがないんですよね(苦笑)。全国キャラバンとは無縁だったけど、いろいろな思い出があるこのゲームは今でも好きです。
寄稿:クリボー 男 1976年生 宮城育ち スポーツインストラクター
あの熱い夏を日本で過ごしたかった
当時、私は父の転勤でオーストラリアで過ごしていた。もちろん英語は解らなかったが、日本人学校での生活だったので、話題はもちろん日本のネタ! アニメ、漫画、そしてファミコンなどなど・・・。
当時友だちと遊ぶとしたらほとんどファミコン、そしてスターソルジャーをやりまくった! 当時、コロコロコミックで全国での熱いレポートを読んで、キャラバンに参加できない悔しい思い出がある。
連射機はサイコーだった。連射機でしか進めなかったのだが、友だちの家によってはそれがない家もあるので大変な思いをした。無理して連射しようすると爪が痛かった。
そんな私でもやはりクリアは夢のまた夢である。確かコロコロコミックでスタート画面で裏面からスタートする極上に難しい設定があったが、2、3日とにかくやりまくったがやっぱり無理!(当たり前です。)
戻れるなら、あの熱い夏に日本で過ごしてみたいです。
寄稿:ゆたゆた 男 1979年生 オーストラリア育ち SE
片手に「ジョイスティック」、片手に「ファミコンロッキー」
シューティング全盛時代、そんな時代があった。『スターソルジャー』「16連射の高橋名人」「全国キャラバン」、シューティングというジャンルがあそこまで熱かったのは後にも先にもあの時代だけだったろう。
学校では「シュウォッチ」で連射能力を測定し、「連射の早い奴は偉く、遅い奴はヘタレ」という暗黙の身分制度が確立し、連射パッドに頼る奴らは卑怯者の烙印を押され、「ジョイスティック」を持っていない奴は小馬鹿にされた。そしてもちろん愛読書は「ファミコンロッキー」である。
まず「連射」というフィジカルな要素を最大限に打ち出したのは、発想として面白い。何も頭を使って謎を解いたりピョンピョン飛び跳ねるだけがゲームじゃない。自分の肉体を酷使して敵を撃墜する・・・。この妙なスポ根ノリのカタルシスが当時の小学生を熱狂させた原因ではなかろうかと今にして思う。
寄稿:Peco 男 1979年生 兵庫育ち デザイナー
足の指で連射ボタン
近所のファミコン好きの友だちの家でしょっちゅうやっていたのを今でも覚えています。そこの兄弟はファミコンにかけては天才的な才能を発揮し、十字ボタンの繊細なコントロールと同時に、Bボタンの連射力が勝負の決め手となるこのゲームでも、仲間内ではだんとつにゲームを進めていっていました。
どうしても連射力の追いつかない僕が使ったのが、ジョイスティックなる連射機能付きの別売りコントローラー。ご存知のかたも多いと思いますが、握って操る形になる十字コントロール部分に馴染めず、ボス出現時など連射が必要な時だけ、足の指でジョイスティックの連射ボタンを踏んでゲームをやったのを昨日のことのように覚えてます。
寄稿:旨茶 男 1977年生 兵庫育ち 配達員 ホームページ
キャラバンでの熱い思い出
確かにこのゲームは熱かった! キャラバンに参加したことのある人間なら、皆がそう感じるのではないだろうか? 大会会場で仲良くなった人々も、ゲームが始まるとみんなライバルとなっていた。
俺は大阪会場で予選落ちとなったが、その後の応援にも熱が入った。あまりの熱血振りに、司会者の桜田名人(高橋・毛利両名人の下に、川田・桜田名人という方がいらっしゃったのだ。他にも藤原名人って方もいらしたっけ)から、ボンバーマンのバッジを手渡されたぐらいだった。また、当時まだ発売前だった『高橋名人の冒険島』も特別にプレーさせてもらえたことが自慢だった。
たかがゲーム、されどゲーム。少年の日の熱い思い出は、今も俺の中に生き続けている。
寄稿:ライデン 男 1974年生 大阪育ち 企画戦略部署兼任営業担当
甲子園に相通じるハイレベルな全国キャラバン地区大会
数あるソフトの中で最も印象深いのが、全国キャラバン公式認定ソフトの『スターソルジャー』。地区大会に向けて、指が痙攣する程連射の毎日だった人も多いと思う。とにかく撃って撃って撃ちまくるという単純なシューティングなんだけど、とにかく熱い!
大会本番に向けて、友達数人と猛特訓したことをよく思い出す。「シュオッチ」での特訓で徐々に連射のスピードも向上し、自機を操作する反射神経も身に付け、予選通過ラインの32万点はコンスタントに記録できるようになっていた。「ラザロ」は、ある位置で攻撃すると8発で破壊できるが、「サイドアタック」や「脳天撃ち」など多彩な攻撃方法があった。勿論、ど真中で迎え撃つのが正攻法。
大会当日の予選は、32万点はざらで、33万点、34万点が次々に記録されるハイレベルなものだった。本番に向け、1つのミスも出さぬよう練習し一発勝負する姿を、甲子園を目指し、必死にプレーする高校球児と重ねていた。
寄稿:とおる 男 1973年生 福島育ち 会社員
地元の大会で4位! 賞品は図書券
当時小6だった僕は、友達とこのゲームでただひたすら高得点をめざして争っていました。夏休みに、地元のショッピングセンター(パープルタウンだったような)で大会が行われて、出場した僕はなんと4位に入りました。賞品の図書券をもらい、その足で『コロコロコミック』を買って帰り、さらに攻略に励んでいました。またその会場では、毛利名人を初めて見て感動したことを覚えています。やっぱりうまかったーっ。
寄稿:ダッチ 男 1974年生 鳥取育ち 会社員
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