アイスクライマー
任天堂
1985.1.30発売
©1984 Nintendo
割れたアイスクライマー
当時の小遣いでは、一本5,000円前後もするソフトをそうそう買えるはずも無く、多くのゲームは友だちと「交換」して遊んでいました。このゲームも友人から借りたものでした。
二人同時プレーが可能なゲームの常として、私もご多分にもれず「協力」よりは「対戦」で遊ぶことが多かったのですが、そんなある日、このゲームが原因で兄とケンカになりました。そして、揉み合っているうちに、なんとこのカセットをファミコン本体にさした状態で踏ん付けてしまい、「バキッ」という音とともにカセットは割れてしまったのでした。
さあ大変です。「どうしよう、友だちに借りたものなのに……!」と真っ青になりました。泣く泣く親に事情を話し、同じソフトを買って返しました。兄と一緒にたっぷり叱られたことは言うまでもありません。
しかし、壊れたソフトも実は「外側のプラスチック部分」が割れただけであり、そーっと差し込めばちゃんと作動したのでした。そんなわけで、我が家の割れたアイスクライマーは、中古ショップに売られることも無く、最後まで本体の傍にあり続けたのでした。
元々非常によくできたゲームだったので、ファミコン後期に至るまで末永くプレーし続けたゲームとなりました。なお、それ以降も兄とケンカすることはしばしばでしたが、そんな時も「ファミコンは安全地帯に避難させてから」というのが暗黙のルールになりました(笑)。
寄稿:フジケン 男 1973年生 兵庫育ち 会社員
弟にジェラシー
弟の誘惑により、お年玉を兄弟でフルに使ってファミコンを買った。スーマリが出る前だったから、ファミコンが手に入らない、という苦労はなかった。
そして、一緒に買った『忍者くん』(→俺が買った)、そして弟が買った『アイスクライマー』。断然、アイスクライマーのほうが面白かった。弟のゲームの見る目すんげー、っと悔しかった思い出です。
俺をほっといてさっさと上の階に上っていってしまう弟に、ニュータイプや、ゲームの天才や、と。うれしいのだが、めっちゃ悔しかったのですよ。
まわりのみんなと盛り上がれる楽しさ
たしかポポとナナという名前だった気がする。この2人が氷山をひたすら登る愉快痛快アクションゲーム。小6の時、同時期発売の『バルーンファイト』と一緒に、友人宅でワイワイと遊んだ。
昔のアクションゲームはまわりのみんなと盛り上がれる楽しさがあった(特にミスした時は盛り上がる)。『アイスクライマー』のキャラクターは、今でも別ゲームに登場するくらい息が長い。地味なのに。
ちなみに、当時の敵キャラはかわいいアザラシだったが、ハンマーで叩くのが悪い表現という風潮なのか、最近のバージョンではよくわからんキャラに変わっている。
寄稿:ゾイン 男 1972年生 神奈川育ち 映像監督
結局はやり合い
「『アイスクライマー』やろう。殺し合わないで協力してやろう。」始まりはいつもこうです。
言ったほうも騙す気はないのですが、やってるうちに間違って画面をスクロールさせたり、遅い相手に腹を立てたりと、結局はやり合いになってしまいます。「遅いお前が悪いんだろう」とか、「やったな、やったお前が悪いんだからな」とか。やりあいの種はいくらでもあります。
やりあった結果1面もクリアできなかったりすると虚しくなったりするのですが、また次の日にはいつものセリフ。今思うと、よく友だちなくさなかったなと思います。
寄稿:もよもと 男 1976年生 青森育ち 会社員
家族揃ってファミリーコンピュータ
とにかく競争競争競争ッ!!!が、命のゲームでした(笑)。当時5歳の私は飽きもせず、毎日友人や姉妹と対戦をしてました。
しかしこのゲーム……というかファミコンのゲームは、今ではとても信じられない現象が起こっていました。それは、テレビゲームに絶対無縁だと思われたはずの私の両親までもが『アイスクライマー』にはまっていたことです。
ファミコンのキャッチフレーズ、「家族揃ってファミリーコンピュータ」まさに、この通りの言葉になりました。しかも『アイスクライマー』だけでなく他のファミコンのゲームにも、私の家族は夢中になっていました。
そして今のゲームは、キレイな背景、キレイな音、豊かな表情で、ファミコンとは比べ物にならないくらい凝ったゲームになりました。でも、家族揃ってという言葉からはどんどん遠ざかっている気がします。あれから17年……。
私の同世代、あるいは少し上の人たちは、やはりファミコンを超えるゲームに会っていないみたいです。いつかまたファミコンのようなゲームに出会えるといいなと思っています。
寄稿:エニクス 男 1983年生 群馬育ち 会社員
上達を見守ってくれたファミコンの師匠
「協力」という言葉などまるでなくプレーしていた僕たち。あるのは当然「殺し合い」だ! しかし、僕のファミコンの師匠とのプレーは一味違った。
師匠は常に僕が登ってくるのを待ってくれ、高得点キャラも優先してゆずってくれた。先にゲームオーバーになっても、「俺の残りでやっていいで」と言ってコントローラーを渡してくれるのだ。師匠にとって僕は重荷だった。それでも師匠は僕にアドバイスをくれながらともに楽しんでいた。
ある日、師匠が僕より先にゲームオーバーになった。くやしがりながらも、「うまくなったやんけ!」と誉めてくれた。同い年ながらも尊敬していた師匠、あなたは今いったいどこにいるのでしょうか?
寄稿:ライデン 男 1974年生 大阪育ち 戦略担当兼作家
友情をゲーム画面の中に持ち込める
小学校低学年の時によく遊んだ。南極風のビジュアルのせいか、『けっきょく南極大冒険』のカートリッジとよく間違えた。そして、やはり私も友人との2人プレーは「協力」ではなく「足の引っ張りあい」であった。
これは『マリオブラザーズ』等にも言えることだが、こういった任天堂のゲームは2人で遊んでこそ面白い。時には協力したり、時には足を引っ張りあったり、現実の友人と同様に仲良くするだけでなく、たまに喧嘩もした。うまい言葉が見つからないが、「友情をゲーム画面の中に持ち込めるシステム」とでも言えばいいのか。当初からこの部分をコンセプトに据えていた任天堂には頭が下がる思いだ。
そうしているうちに20年近くが経ち、『アイスクライマー』は「ファミコンミニ」という形で復刻された。最初は、正直10本のラインナップの中に入らないだろうと思っていた私は、改めてこの作品の人気の高さを実感した。実は私は「ファミコンミニ」が出る数ヶ月前にこのソフトを買い直したのだが、なんと中古で4,000円もした。素直に復刻版を買えば良かったかなと思う今日この頃である。
寄稿:Peco 男 1979年生 兵庫育ち デザイナー
毎朝早起きしてみんなで画面に向かってた
私が『アイスクライマー』にハマったのは幼稚園の時でした。初めてファミコンを知って間もない頃だったので、毎日朝早く起きてファミコン(笑)。(冬休みでいとこの家にいた)大勢集まって、みんながファミコンに向かう姿は異様でした。
有名なゲームだと知ったのは16歳の時なんです。それまではその辺にいる人にきいても、「わからない〜〜っ」て答えばかり。というのも、「上に行くとナスとかキャベツがあるやつ」「最後にトリみたいなのにつかまるやつ」ときいていたものなので(笑)。
約10年越しに思い出してすごく新鮮な気持ちになれました。
寄稿:あいちゃん 女 1984年生 神奈川育ち 主婦
友人と足を引っ張り合いながら遊んだ
友人の家で遊んだ。まだ■ゴムボタンのコントローラを握りしめ、ボタンが引っかかっては怒鳴り散らし、友人のお母さんに怒られながらも、友人と足を引っ張り合いながら遊んだのを覚えています。無意味に2コンのマイクでも叫んでいたっけか。
このゲームがきっかけで、うちにもファミコンが来たんですよねぇ。もう一度やりてぇなぁ・・・。そして、友人を奈落の底に落としたい(笑)。二人で遊べるファミコンらしいゲーム、この頃はいっぱいあったのにね。
寄稿:なかがわ 男 1971年生 東京育ち 営業販推 ホームページ
双子の兄と二人で毎晩狂ったように
当時中1だった私と双子の兄は、近所の電気屋にファミコン本体を予約し(納入は3週間後!)心待ちにしていた。そして3週間後買いに行くと、「ごめん、昨日売れちゃったんだよ」と、わけわからんことをのたまわれ、泣きそうになりながら、次の2週間後の納入日を待った苦い記憶があります。
親に内緒で買った為、テレビ付ラジカセ(白黒/4インチ画面)で部屋で隠れてやってました。(←バカ待たされ過ぎた為、二人で毎晩狂ったようにアイスクライマーにはまってました。二人プレーで足を引っ張りまくるのが最高に面白かった。)
画面が小さく、しかも白黒の為、目の疲れも激しくイヤになり、親に白状して初めてカラー画面でプレーしたときの感動は衝撃的でした(笑)。
寄稿:Y・H 男 1968年生 広島育ち 現場監督
⇒あなたも思い出コラムを書いて送ってみませんか?
|